「諦め」が前提の要介護生活
「諦める必要のないこと」まで諦めて過ごす日本の要介護生活
日本においては、高齢になるほど要介護認定を受ける人の割合が増えます。75歳以上85歳未満では約5.5人に1人、85歳以上になると約1.7人に1人の人が要介護認定を受け、その大半が介護保険サービスを必要とする生活を送っています。高齢となると、誰もが認知症や病気、怪我などで健康を害し、介護が必要になる可能性があります。しかし、日本においては“「諦める必要のないこと」まで諦めて過ごす介護生活”が当たり前になっています。
例えば、介護度で最も軽度な要支援1の状態ではかろうじて自立した生活が可能ですが、要支援(1~2の2段階)状態から介護度が上がった「要介護」(要介護1~5の5段階)になると、生活のルーティーン、買い物、外食、趣味、家族・親族・友人との交流、おしゃれ、散歩、旅行、墓参り、ペットとの生活など、これまで当たり前だったことを諦めざるを得ない場面が多くなります。
しかし、介護が必要になったからといって、これらすべてを諦める必要があるわけではありません。それにもかかわらず、制度の限界や福祉サービスの行き過ぎた効率化などの理由で、本来なら続けられるはずのことまで制限される現状が、日本の介護生活ではあります。
要介護生活になって高齢者に起きていること
- 思い入れのある家に、家族と一緒に住み続けることを諦めないといけない。
- 家では毎日お風呂に入っていたが、施設に入ったら週2回しか入れず、湯船にもゆっくり浸かれない。
- 家で家事や孫の世話も任せてもらえなくなり、地域や社会でも役割が無く、自分が必要とされる場がない。
- 外出して、買い物したり、外食したり、知り合いに会ったりすることが、全くなくなった。
- 大切な親族・友人の結婚式や葬儀に参列できず、墓参りにも行けない。
- 老人ホームに入る時にペットと一緒に暮らすことを諦める必要があり、ペットは第三者に貰われていった。
- 施設に入ったら刺激がなくなり、判断能力がどんどん低下してしまう。
- 施設に入ったら面会時間に限りがあり、ずっと共に暮らしてきた家族と話したり、一緒に過ごすことができない。
- 施設に入って障害のある子どもと別れて暮らさないといけなくなり、ほとんど会えない。
実は要支援になった途端、生活に支障が出る介護区分

要介護状態は、身体機能の低下によって段階的に進行します。
まず、要支援1の段階では、自力で起き上がったり立ち上がったりすることは可能ですが、大きな負担感を感じるようになります。
外出を負担に感じる人も増え、この時期に家にこもるか、外出や運動を続けるかによって、その後の進行具合に差が出ます。
次に、要支援2や要介護1の段階になると、片足で立つことが厳しくなり、お風呂を跨いで入ったり、階段をスムーズに昇り降りすることが困難になります。
また、トイレを一人で利用すること、お風呂で体を洗うことが難しくなるほか、自力で買い物に行くことも厳しくなってきます。
要介護2になると、歩行時にシルバーカーなどの補助具が必要になる人が増え、一人でお風呂に入ることや爪を切ること、簡単な調理などが自力では難しくなります。
さらに要介護3の状態になると、補助器具を使っても歩行が難しくなり、車椅子を利用する人が増えてきます。これに伴い、一人で着替えたり、トイレでズボンを下げて排泄し、拭いてズボンを履くといった一連の動作も困難になります。
要介護4では、両足で立つことが厳しくなり、背もたれがない状態では座り続けることも困難になります。
長時間椅子に座ることができなくなるだけでなく、車椅子に自力で乗って動かすことも難しくなります。
そして、要介護5になると、自力で体を動かすことがほぼできなくなり、ベッド上での生活が中心となります。
外出も極めて困難になり、日常生活のほとんどに介助が必要な状態になります。
なお、これらの身体機能の変化は、認知症の進行具合等によって、前後することがあります。
「諦める必要のないこと」まで諦めて過ごす生活の危険性
介護が必要になると、それまで当たり前にできていたことを諦めざるを得ない場面が少なからず出てきます。
しかし、日本の介護生活では「本来諦める必要のないこと」まで諦めてしまう傾向があり、それが健康状態の悪化を招き、さらには要介護度の上昇につながることが多くあります。
たとえば、介護が必要になることで、家族や友人と自由に会うことが難しくなり、孤独・孤立の状況に陥りやすくなります。
また、買い物や外食、ファッションや趣味など、これまで楽しんでいたことを諦めざるを得なくなることで、生活の質が低下し、それが健康の悪化につながることもあります。
さらに、仕事や地域活動などの社会的な役割を失うだけでなく、家事や掃除といった家庭内での役割も果たせなくなることが増えます。
特に、これまで社会や家庭で大きな役割を担ってきた人ほど、その喪失感は大きく、精神的なストレスが健康状態のさらなる悪化を引き起こす原因となります。
こうした状況は、制度の限界や福祉サービスの行き過ぎた効率化によって生じている場合もありますが、一方で、福祉専門職や関係者の工夫によって、本来なら諦めなくても済むことも多くあります。
つまり、日本の介護では、必要以上に諦めてしまうことが、かえって健康を損ない、結果として要介護度のさらなる上昇を招く危険性を高めているのです。
「諦める必要のないこと」まで諦めてしまい、発生する問題
- 孤独・孤立(家族・親族・友人との交流機会の減少など)
- 必要以上の生活の質・人生の質の低下
- 社会的役割がなくなる
- 家族内の役割(存在意義)がなくなる
- 家族の介護負担
これらの状況が続くことによって更なる健康状態・介護度の悪化
生活の質・人生の質の低下
介護が必要になると、日常生活能力の低下に伴い、外出が困難となります。
その結果、毎日楽しんでいた散歩や買い物、趣味活動が難しくなり、旅行やお墓参り、冠婚葬祭などへの参加も「諦めざるを得ない」と感じるようになります。
食事についても、外食の頻度が減り、食べたいものを自分で選ぶことが難しくなります。
また、要介護度が上がり、口腔機能が低下すると、食べやすさが優先され、食事が細かく刻まれたり、ペースト状になります。さらにカロリー制限や塩分制限が加わると、食事の楽しみはますます減少していきます。
トイレについても、効率化や転倒リスク回避の観点から、自分でトイレに行って排泄ができても介護者(家族や施設など)からオムツの使用を求められることがあります。このようなことがあると、介護を受けている人は尊厳を奪われ、自己効力感が低下することにも繋がります。
介護度が高い人の入浴は、介護者の負担が大きいこともあり、毎日好きな時間に入浴することは難しく、介護保険サービスを利用しても一週間に2〜3回の入浴になることが一般的です。
また、施設に入居する場合はペットと一緒に暮らせることが滅多になく、入居時には長年家族同然に過ごしてきたペットと別れざるを得ない状況も生まれます。
これらの「諦め」の背景には、介護者の「身体的・精神的負担」や、一般的な介護保険サービスでの「行き過ぎた効率化」があります。しかし、要介護者はすべて諦めなければならないわけではありません。
介護においては適切な対応や工夫を行えば、「諦め」なければいけないことを最小限にし、生活の質の低下を食い止めることは可能です。
社会的役割が無くなり、家族内での存在意義も失う
病気や怪我、老化などにより介護が必要になると、自治会やサロン活動、老人クラブ、ボランティア活動などの地域コミュニティへの参加や友人との交流、趣味の集まり、仕事などを続けることが難しくなり、多くの人が社会的な役割を失ってしまいます。
また、家族内でも、それまで担ってきた家事が「危ないから」などの理由で制限され、料理や掃除、孫の世話、留守番さえも家族から止められることが増え、家庭内での役割まで失われてしまいます。さらに、家族内での立場も変化し、家族内における自身の存在意義まで疑問を感じることも少なくありません。
こうした社会的役割や家族内での役割を失うことは、健康寿命の低下や要介護度の悪化につながる可能性があるにもかかわらず、多くの人が「介護が必要になったのだから仕方ない」と諦めてしまっています。
しかし、長年にわたり社会や地域、家族の中で重要な役割を担ってきた人ほど、その喪失は精神的な大きなショックとなり得ます。
福祉職の現場では、高齢者から「私は厄介者だから・・」という言葉を聞くことがありますが、これは単なる謙遜ではなく、高齢者の無力感や存在意義の喪失を感じているからこそ出てくる言葉なのかもしれません。
家族・親族・友人との交流を諦め、孤独・孤立となる
介護が必要になると、友人や知人と直接会って交流することが難しくなり、誰かの助けがなければ外出することも困難になります。
さらに、聴力や認知機能の低下によって電話での会話が難しくなることもあり、交流の機会はますます減っていきます。
実際、介護が必要な人の多くは、自宅で暮らしていても地域活動や友人とのつながりを失いがちです。
さらに、施設に入居した後は、訪ねてくれる友人がほとんどいなくなり、交流の機会は一層減少してしまいます。
また、生活のあらゆる場面で介助が必要になり、排泄などこれまで当たり前にできていたことが難しくなくなると、「人に迷惑をかけてまで友人に会うのは申し訳ない」「こんな姿を見せたくない」などと感じ、意図的に他者との交流を避けるようになることもあります。
その結果、孤独・孤立が深まり、さらに健康状態の悪化を招くという悪循環に陥ることがあります。
実際、孤独・孤立の状況である人は、認知症や生活習慣病のリスクが高まるという調査結果もあり、介護が必要になった人がさらに体調を崩したり、要介護度が上がる要因となることが懸念されています。
「愛犬と再開した日、人生がまた動き出した」
Aさん(72歳・男性)は、若い頃から家業の白菜農家を営みながら、季節ごとに建設作業員や配送ドライバーとしても働き、多様な職業を経験してきました。子どもたちはすでに独立し、最愛の奥様との別れを経て、一人暮らしを続けようになりました。晩酌しながら大好物のお刺身を楽しみ、趣味の釣りや将棋に打ち込み、地元の友人たちとの交流を大切にしながら、愛犬シロとの穏やかな日々を過ごしていました。
しかし、そんな日常に変化が訪れます。糖尿病に続き、脳梗塞を発症し、入退院を繰り返す日々に。
そして、70歳を迎える少し前からは認知症の兆候が現れ、生活のあらゆる場面に支障をきたすようになりました。
さらには不運にも交通事故に遭い、右足を失うことに。車椅子生活を余儀なくされ、「もう一人で暮らせない」という厳しい現実と向き合うことになりました。
退院後、Aさんは、介護施設へ入居を決意します。けれども、そこには多くの制限がありました。
面会は週に一度、事前予約のうえ15分のみ。大切な人たちと会う時間はごくわずかに限られ、何よりもつらかったのは、愛犬シロとのお別れでした。施設ではペットと一緒に暮らすことができず、シロは親戚に預けられ、面会すら叶わない日々が続きました。
さらに、食事は糖尿病に配慮した献立に限られ、食べ物の持ち込みもお酒も禁止。
お刺身で晩酌する楽しみを奪われたAさんにとって、日々の喜びが大きく失われていきました。
釣りや将棋といった趣味もできなくなり、外出もままならず、友人との時間も減り、笑顔は次第に消えていきました。
「自分の人生は、もうここで終わってしまうのかもしれない」—そんな思いが胸をよぎる日もあったそうです。
ところが、1年ほどたったある日、Aさんに新たな希望が訪れます。長らく申し込んでいた、Aさんの想いやこれまでの暮らしを大切にし、温かく支えてくれる特別養護老人ホームへの転居が決まりました。
ようやく見つけた、自分らしく暮らすことができるかもしれない場所への待ちに待った転居でした。
新しい施設では、シロとの面会が許され、再び、愛犬に会うことができました。さらに、面会制限がなくなり、気心の知れた友人たちとも自由に会えるようになったのです。
「もう二度と会えない」と思っていたシロとの再会の瞬間は、言葉にできないほどの喜びに満ちていました。
この施設では食事の方針も柔軟で、食べ物の持ち込みが可能に。
外出や外食のサポートもあり、健康状態を見ながらお酒を楽しむこともできました。
久しぶりに味わうお刺身の美味しさに、Aさんの顔には自然と笑みがこぼれました。
ある日、ボランティアに来ている方と将棋を指す機会が訪れました。
駒を手にした瞬間、かつての感覚がよみがえり、真剣な眼差しで盤面を見つめるAさん。
その時間は失われたと思っていた「生きがい」を取り戻すきっかけとなりました。
「今度は釣りに行きたい」—そんな言葉がAさんの口からこぼれたとき、周囲は驚きと喜びに包まれました。
諦めていた日常が、少しずつ、形を変えながらも戻ってきています。
私たちが目指す社会の姿介護が必要になっても「諦めない」社会の実現
高齢となると、誰もが認知症や病気、怪我などで健康を害し、介護を受けるようになる可能性があるものの、日本においては“「諦める必要のないこと」まで諦めて過ごす介護生活”が当たり前になっている現状を踏まえ、私たちは「介護が必要になっても「諦めない」社会の実現」という目標を掲げて活動しています。
そして、最も大きな問題と考えられる、自宅暮らし、外出、人との関わり、食事、家事、おしゃれ、趣味等の「生活の質に関する断念」、「社会的役割の喪失」、排泄の尊厳や施設内移動など「介護を受ける上での断念」、「集団生活で起こる断念」、「ペットとの生活の喪失」に加えて「介護予防」「リハビリ・治療不足による回復不全」を含めた7つの問題に焦点を当て、社会問題に対する対処療法に留まらず、根本治療や予防となる活動も行い、介護の負の連鎖を断ち切り、社会的インパクト(成果)に繋げることができる活動を行います。
解決のための活動
